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  • 執筆者の写真清浄山 安楽寺(大阪府茨木市)

あの明智光秀も入った!?摂津太田城について

拙寺の檀家さんでKさんという方は、代々この太田村にお住まいで、歴史や文化財について非常によくご存知でした。行政の刊行本でも執筆されたり、茨木市関連の歴史書籍などの記事には取材・執筆協力されるなどしておられました。  その方がお書きになった本などでは、太田城のことが紹介されています。この太田村は西国街道も通し、地形や位置的にも非常に重要な場所であったため、古くから城があったようです。今もその跡といわれる場所が残っています。 今、大河ドラマで戦国武将の明智光秀が取り上げられているので、ちょっと調べてみました。 ◎次の日(天正6年(1578)11月10日)、滝川左近将監一益、明智惟任日向守光秀、丹羽惟住五郎左衛門尉長秀、蜂屋兵庫頭頼隆、氏家左京亮直通、伊賀(安藤)伊賀守守就、稲葉伊予守良通、島上郡芥川、島下郡糠塚、同太田村、猟師川辺(地名?)に陣取り、御敵城茨木の城へ差し向かい、太田の郷、北の山に御砦の御普請申し付けられ候。(中略)茨木へ差し向かい候付け城、太田郷砦御普請出来(しゅったい)申すについて、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野、入れ置く。(後略) ※『改訂信長公記』(新人物往来社)P235 それから以下は、城と直接関係無いのですが、太田村には宿もあり、宿場としても往来の人々に利用されていたようです。抜粋です。 ◎幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。

 南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安4年(1371)有馬温泉(神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の9月20日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。 ※大阪府の地名1(平凡社刊)P185 専門家の調べでは、このように歴史的事実が判明しています。私にとって、あまりに身近で、そのようなことも、それ程に意識しませんでした。しかし、改めて研究結果を読んでみると、明智光秀の生きた戦国時代と、私が見てきた景色に共通するところがあるように思うと、何だか少しワクワクしますね。



伝太田太郎頼基の墓(顕彰場)

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